ブロワ城−建築史の博物館

1429年4月26日、ジャンヌ・ダルクはプロワ城の第一郭で勢揃いしてから初陣に出た。その時、王太子のもとへシャンパーニュを追われ、亡命して来ていたランスの大司教が、ジャンヌの旗印に祝福を与えた。以来この旗印の進む所、次々と奇跡のような勝利が訪れる。

それまで、軍の行く所には、必ず後ろから売春婦の大部隊がつき従うのが通常の光景だった。しかし、ジャンヌは全軍にお触れを出し、この悪習を止めさせた。
男の総大将が、こんな命令を出しても、当時戦いの主力は傭兵が担っていたから、傭兵たちはおそらく聞き入れなかったであろう。が、そこは神様のお告げを受けた純真無垢な少女のお触れと言うことで、皆が襟を正す気持ちになったのだろう、連敗を重ねていたフランス軍が、連勝に転じた。
ジャンヌ・ダルク神話の語る一つのエピソードである。

そして、時代は下って1588年。フランス国内は旧教徒(カトリック)と新教徒(ユグノー)の2派に分かれ、有力貴族の勢力争いとも絡まって、血なまぐさい戦乱や虐殺事件が繰り返されていた。
国王アンリ3世と母后カトリーヌ・ド・メディシスの政策は、新旧両教徒の和解を図って、そのバランスの上に王権を拡充しようということであった。
今や大きな経済力を持って王権の支えになっている商工

市民階級の間に新教徒が多かった。それをむやみに弾圧することは、国王として得策ではないと考え、新教徒に信仰の自由を認め、国内に平和と繁栄を取り戻そうというのがアンリ3世と母后カトリーヌ・メディシスの基本方針であった。

しかし、ギーズ公アンリを首領とする旧教徒強硬派は、こんな国王の政策にまっこうから反対していた。ギーズ公は当時のフランスで勢威並ぶ者のいない大貴族であり、遠くカロリング王家の血を引いていると称して、王位さえ窺っていたのだ。
そうして、伝統的に旧教徒の勢力が強かったパリで、武力に訴えてアンリ3世を屈服させ、このブロワで三部会を召集させたのである。
パリでは既に「アンリ3世を廃位せよ」という声が盛んであった。「国中で、あまねく正しい信仰(旧教)を護持できないようでは、国王の資格がない」と言うわけである。

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