1855年のワインの格付け

ウィーン会議の後の神聖同盟は、ヨーロッパ規模での反動体制だった。フランス国内では、ナポレオンがセント・ヘレナヘ島流しにされた後、プルポン朝のルイ18世と共に、帰国した旧貴族たちは、旧国家体制(アンシャン・レジーム)の復活に精力を注ぐ。これは当然産業革命によって生まれた近代市民諸関係と対立する。いわゆる王政復古期は、この二大勢力の対立をめぐる流動の時代だった。

ナポレオン3
1830年の「7月革命」その後の「7月王政」1848年の「2月革命」を経て「第二共和政」の時代に入る。しかし、その不安定な政局を安定させるための新憲法に基づく大統領選挙で、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが投票総数の4分の3にあたる540万票を集めて当選した。

ナポレオン1世の甥に当たるルイ・ナポレオンは、自分こそ伯父の偉業を受け継ぎ偉大なフランス再興を担う人間であると信じこんでいた。 イタリア、アメリカ、イギリスと各地で亡命生活を送っていたルイは、ナポレオン伝説が根強く残っていたフランス国民にとって未知の魅力を持っていたし、彼の説く産業保護

政策は新興ブルジョワ勢力にとっても悪くなかった。
1851年12月、アウステルリッツの戦勝とナポレオン1世の戴冠式の記念日を利用してクーデタを決行、帝位につき、1852年の国民投票でも圧倒的多数でその地位を追認させる。

ルイ・ナポレオンは、亡命時代の経験や、サン・シモン主義や英国経済学を学んでいたから、産業革命の重要性と英国の経済発展の原動力を認識していた。

政治的には親露・親襖政策から親英政策に切り換え、経済的にはフランス産業の近代化と生産力の増強を計るため、工業部門の技術革新と設備投資を促進させた。自由貿易主義にふみ切り、金融の近代化にも取り組み、更に、大規模公共事業を実施した。

鉄道網は1850年の延べ3,083kmから70年には18,000kmに達した(これにはロスチャイルド財閥が関わっている)。
これはフランス市場の構造を一変させ、しかも大量の労働力を農村から都市に引き寄せた。
金融改革による信用拡大は投機ブームを起こし、公債市場の公開とあいまって投資の大衆化をもたらした。
公共事業で言えば、セーヌ県知事オスマンによるパリの都市計画によって、狭い曲がりくねった道路と市街は取り壊されれ、凱旋門広場を中心に広い道路が放射状に八方に延びるようになり、繁華街・高級住宅街・貧民街は整然と区画整理さ

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