1855年のワインの格付け
ウィーン会議の後の神聖同盟は、ヨーロッパ規模での反動体制だった。フランス国内では、ナポレオンがセント・ヘレナヘ島流しにされた後、プルポン朝のルイ18世と共に、帰国した旧貴族たちは、旧国家体制(アンシャン・レジーム)の復活に精力を注ぐ。これは当然産業革命によって生まれた近代市民諸関係と対立する。いわゆる王政復古期は、この二大勢力の対立をめぐる流動の時代だった。

政策は新興ブルジョワ勢力にとっても悪くなかった。
1851年12月、アウステルリッツの戦勝とナポレオン1世の戴冠式の記念日を利用してクーデタを決行、帝位につき、1852年の国民投票でも圧倒的多数でその地位を追認させる。
ルイ・ナポレオンは、亡命時代の経験や、サン・シモン主義や英国経済学を学んでいたから、産業革命の重要性と英国の経済発展の原動力を認識していた。
政治的には親露・親襖政策から親英政策に切り換え、経済的にはフランス産業の近代化と生産力の増強を計るため、工業部門の技術革新と設備投資を促進させた。自由貿易主義にふみ切り、金融の近代化にも取り組み、更に、大規模公共事業を実施した。
鉄道網は1850年の延べ3,083kmから70年には18,000kmに達した(これにはロスチャイルド財閥が関わっている)。
これはフランス市場の構造を一変させ、しかも大量の労働力を農村から都市に引き寄せた。
金融改革による信用拡大は投機ブームを起こし、公債市場の公開とあいまって投資の大衆化をもたらした。
公共事業で言えば、セーヌ県知事オスマンによるパリの都市計画によって、狭い曲がりくねった道路と市街は取り壊されれ、凱旋門広場を中心に広い道路が放射状に八方に延びるようになり、繁華街・高級住宅街・貧民街は整然と区画整理さ